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知らないいい話をありがとう!
ご視聴ありがとうございました😊
こんな悲しい人生を送られた人がいたのですね😢
仲間を想うがためにしてしまった事、最後はどんな思いだったのかと考えると心が苦しくなります。
遺体や遺骨に何の意味も持ちません蝉の抜け殻の様な物ですでも会津藩士を賊軍と罵る心が憎い
歴史春秋社より刊行されている『伴百悦』を読みましたが、本当にすごい人物だと思いました。素敵な動画をありがとうございました。私も伴先生の足跡を辿りたくなりました。
実は家の近くに伴百悦さんのお墓があって興味を持って調べ始めました。それで新潟県まで行ってしまいました。
良く此処まで調べられるとは、悲しいけどこの人の人生素晴らしい。ありがとうございました‼️
実は善龍寺さんの伴百悦さんのお墓のすぐ近くに住んでるんですよ😊僕の父がお散歩してて凄い人のお墓ぎあるから調べてみろ❗️と教えてくれたので調べてみました。
@@aizuchannel ありがとうございます❗貴方の動画が分かりやすくて前から観ていました。今回久しぶりに又色々観ていました😃ちなみに私長岡生まれ今日は色々観てしまいました‼️登録させていただきます🍴🙏
クッキーさん僕の動画を見て頂きありがとうございます😊まだまだ間違いも多いですが💦また見ていただけると嬉しいです。これからもよろしくお願いします🙇♂️
安らかに、伴殿!
ご視聴ありがとうございます。
いつの日にか、福島梁川の干し柿を伴先生に、お供えしたいと思います!感動の涙有り難う御座います。
伴さんもお喜びになると思います😂その心に感謝いたします🙇♂️
全く知りませんでした。😮教えくれてありがとうございます🙇♀️良くも悪くも人に歴史ありですね。人を取り巻く時代とともに…😢
あまり知られていない方ですからね。他にも有名ではないけど義を通した素晴らしい方がたくさんいます‼️
伴百悦!真の侍とはこう云う人を言うのですね。安らかに。
義に誠実に悪を許せず事を起こして自刃。波乱万丈の生涯だったんですね!
@@aizuchannel 今の政治家に欲しい人ですね!
会津藩の激動の戦いの裏に、このような方がいらしたのですね。大変興味深く拝見しました。それにしても、会津には誠の侍が沢山いますね。益々会津が好きになりました。
会津の人は頑固だと今でも言われています。先人たちの頑固さ、誠義を貫く心が脈々と受け継がれているんですね!
泣ける
伴百悦さんの生涯は本当に考えさせられますね。
伴百悦のことは会津の歴史を知り始めてしばらくたってから知りました。壮絶な人生だったのですね。そしてまさか私の出身地の新津て亡くなっていたとは❗😢どんな気持ちで潜んでいたのでしょうね😢わざわざ訪ねてくださり、見せてくださってありがとうございました。
僕も伴百悦さんの事は大人になってから知りました。新津のご出身なんですね!伴百悦さん最後の地は今でも大切に保存されていました。
戊辰戦争にこんな秘話があったのですね。立派な武士としての生き様、感動しました。容保公が最後まで大切に所持されていた、孝明天皇から頂いた御宸翰で明治の世になってからですが、朝敵の汚名をそそぐ事が出来ました。歴史っていつも勝者の都合の良い様に作られていくのですね。なぜ伴様はお仲間のいる斗南に向かわれなかったのでしょうね。
伴さんの事はあまり表に出ない話ですね。僕も今回深く調べて、新潟のお墓まで行って大変感動いたしました。会津のお墓のすぐそばに住んでいるので伴さんについてもっと知りたくなりました。斗南へ行かなかったのは戦死者の埋葬があったからなのかと勝手に思います。
@@aizuchannel 様 返信ありがとう。戦死した方々の埋葬を済ませたなら なぜ斗南じゃなく新潟へ行かれたのかなと思いました。斗南の想像を超えた苦しい環境、生活を聴いておられたのでしょうか・・? 幕府そして天皇に尽くした会津藩、ラストサムライに胸を打たれます。
会津藩士伴百悦、身分を落としながら戦死した藩士たちを埋葬し、新政府の理不尽な態度に我慢しながらも久保村文四郎の態度だけには我慢が出来なかった。只、会津が京都守護職に着く事を説得したのは福井藩主松平春嶽。容保が断っても家訓を持ち出して説得した❗この事がなければ歴史は少し変わっていたかも知れない❗会津は優秀な人材を失いすぎました。只。久保村文四郎は暗殺されて当然の人物❗
加藤さんへ・あなたのコメントの通りで、伴氏は人情に厚く実直な逸材の一人だったかと思うと残念でなりません。
秀樹さん。ありがとうございます❗戊辰戦争は会津が朝敵の汚名をすべて受けた戦争でした。会津の藩士と女性達は只自分達のふるさとを守るべく戦ったのです。薩摩、長州の方々が会津で取った行動は許されるものではありません❗その後太平洋戦争で白虎隊の最後を国威宣揚に利用した事も許せない❗
伴百悦という方の生涯を初めて知りました。あらためて会津の歴史は深いなと感じました。どうしても侍として久保村を許せなかったのでしょうね…
情け容赦ない蔑みと感じたんでしょうね。
どうもありがとうございます。はじめてお聞きする話です。私は福井・若狭の生まれですが、聡明な春嶽公の下に久保村のような人もいたことに驚いています。
ご視聴ありがとうございました。
保科正之が私心で米澤の上杉家を取り潰しから救ったのが間違いなのです。領地を15万石に減らされた米澤の上杉家は幕末まで残っていました。米澤の上杉家は旧領である越後を狙っていました。會津(奥州)と荘内(羽州)を救う奥羽列藩同盟を米澤は仙臺と共に結成して、主導しました。戊辰北越戰爭に米澤は主力を送りました。米澤の北越戰線の總督・千坂高雅が北越戰線の奥羽列藩同盟總督に成りました。米澤の上杉家と新発田の溝口家は仲が悪かった。米澤の上杉家の圧力に業を煮やした新発田の溝口家は、奥羽列藩同盟を裏切りました。溝口家は領内の海岸に西軍を手引きして上陸させました。西軍が新潟港を占拠しました。長岡城を奪還した河井繼之助は西軍の反撃に遭い銃創を負いました。そして西軍が長岡城を奪いました。新発田の溝口家が奥羽列藩同盟を裏切り西軍が新潟港を占拠しているので、河井繼之助は荘内領で再起する事が叶わずに、會津領に入るしかなかったのです。會津領で河井繼之助は死亡しました。5次元の存在に尋ねたところ、慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、會津・荘内・長岡は戰爭で西軍に負けていなかったそうです。河井繼之助と共和党に密約が存在したそうです。翌年の雪解けの季節の頃に高田をアメリカが海軍と海兵隊で攻撃して、高田を占拠して西軍と會津・荘内・長岡を調停していた筈だそうです。河井繼之助が死亡しても、共和党との密約は機能して、會津・長岡より北はアメリカの属国と成ります。アメリカ海軍と海兵隊は高田に八年程占拠していた筈だそうです。會津・荘内・長岡にアメリカ軍基地は建設されなかった筈だそうです。慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、日本と會津・荘内・長岡はアメリカとの太平洋戰爭を経験せずに済んでいたのです。廣島と長崎に原子爆弾は投下されずに済んだのです。上記は昔、インターネットで俺が公開した文章ですが、保科正之が私心で米澤の上杉家を取り潰しから救ったので、保科正之は大公儀を裏切って居たのです。保科正之の家訓(カキン)は矛盾を生じるものです。其の事に気付かなかった春嶽公は聡明では無い。
動画アップお疲れ様です。歴史の教科書には載ってない会津藩士を紹介して頂いてありがとうございます。会津藩士は決して朝敵では無かったと思いますが、歴史と云うのは勝者の都合の良いように創られるものなんだとつくずく思いました。会津の人達は150年経っても決して忘れないんですね。次の動画も楽しみにしています。
ご視聴ありがとうございます。伴さんの話は僕も深くは知らなかったので今回深掘りできて自分でも良かったです。
越前松平の会津松平との「京都守護職」の一件からの因縁が、久保村と伴にまで及ぶとは。春嶽さまはなぜ久保村を叱りつけないのか?甚だ疑問ですね。岩村精一郎や世良修蔵よろしく。木っ端役人めのどこが偉いのか?俺には分かろうとも思わない。伴さん。あんた正しいよ。流石は誇り高い会津藩士だ。久保村は忘れても。俺は伴百悦を忘れない!
ご視聴ありがとうございます😊地元の人と話しても驚くほど伴百悦さんを知らない人が多いです💦ウチの近所にお墓があるのでたまに参ってますが、もっと地元の人にも知ってほしいですね。
立派なお侍さんです。私がお参りしたのは、あのお墓の手前にあった分骨のお墓だったのですね。善龍寺には他にもたくさんの武士のお墓がありました。末裔のいないお墓は朽ち果てており、なんとも言いようのない胸が詰まる思いでした。安らかにお眠りください。
善龍寺には西郷頼母、保科家などたくさんの会津藩の方のお墓がありますね、家が近くなのでお散歩がてらたまに行きます。古いお墓、無縁になってしまったお墓は確かに朽ちてますね。散歩の際は皆に手を合わせたと思います。
訂正します合唱→合掌大変失礼しました
貴重なお話をありがとうございます!ますます会津藩の藩士が好きになりました!伴のような孤高の藩士の生き様が、世の中にもっと伝わってほしいと思います。本当に素晴らしい方ですよね😌感動しました!昭和になり、子孫の方や有志によって手厚く弔っていただいたようで安心しました。
歴史上の話ではあまり表に出ない方でも深く調べてみるとすごい方もたくさんいますね!これからもそんな人たちにスポットを当てていけたらと思ってます。これからもよろしくお願いいたします。
伴百悦は人情に篤い人物かもしれないが、そんな単純な話でもないことが、背景にある。会津藩の贋金づくりは群を抜くが、明治三年の一年間における若松県下の贋金関係処罰者は、梟首五人・斬罪四十五人・流罪四十九人・不明(獄死か)一人計百人で、内訳は武士五人・農民五十二人・商人三十八人・他五人(宗教者か)に達した。その総額は十七万七千八百五十八両(引換金札額五万三千三百五十七両)と全国ダントツのトップなのである。勿論、贋金の取締りに関係し、政府も黙っていない。 明治元年秋、 若松県民政局監察方であった久保村文四郎(旧福井藩士)を中心に、 旧会津藩士の贋金の取締りを強化する。そして、 明治元年秋、 若松県民政局監察方であった久保村文四郎(旧福井藩士)が、 旧会津藩士の伴百悦 ・高津平蔵らによって旧藩領内の野沢組束松峠の登り口で殺害された束松事件が起きている。この伴百悦と高津平蔵は町野主水とともに、戦後會津戦死者二千三十三体の遺体を阿弥陀寺と長命寺に埋葬の遺体を阿弥陀寺と長命寺に埋葬埋葬したと会津観光史学では美談として取り上げられる人物です。この殺害事件も地元では罪もない会津人を贋金の罪で投獄した悪い役人を懲らしめた英雄なのだが、、、。伴百悦は暫く、旧会津領飛地であった新津に逃れていたが、新津郊外大安寺村の村松兵に包囲され自害。そもそも、いくら京都守護職を務め、鳥羽伏見で敗れ、カネはなかったとはいえ、鶴ヶ城で盛んに贋金をつくった会津藩が悪いのではないか?
義の人
正に義の人ですね!会津のお墓が近くなのでたまに訪れてます😊
伴さんは家族はいらっしゃったのでしょうか?もしいたら奥さんや子供さんは大丈夫だったのでしょうか?
ご視聴ありがとうございました😊ご子孫の方々がいらっしゃるのでご家族はいたと思います。逃亡の果てに遠く離れた地で亡くなられたことはとても悲しかったろうと思います。
侍として最期まで侍として…
侍の心をしっかりと持ち身をもって示したんだと思います。
会津藩士の知られざる哀しい生きざまを知りました!
ご視聴ありがとうございます。頑固に生き、仲間を思い、悪を許せずそんな人生だったんですね。
俺等も会津藩士の子孫 斗南に追いやられ苦労の末会津に戻り帰農した藩士の子孫今はフィリピン在住ですが 会津に対する思いはガキの頃から聞かされて育った 余計思いは会津忘れ難しです
会津藩士の魂は脈々と受け継がれているんですね。ご視聴ありがとうございました😊
清水次郎長親分を思い起こします。官軍賊軍の区別なく遺体を葬る作業を担ったのは有名な話です。かつて日本人同士が争っていたなんてことは現代では考えもつきませんね。平和ボケしないよう歴史を学びましょう!!
150年前に本当にあった事とは想像もつきませんが間違いなくあったんですね!もっと勉強します。
清水の次郎長は、其の作業を、当時は天皇の侍従長に治まって居た【山岡鉄舟】に、見付かり、後には、其の勧めに従い『不二の裾野の大開墾事業』に、従事した為に、歴史に名を刻む事が出来た、侠客当時はしては、希有な人物と成れたのですよ‼️
10:47分頃「居を次々と変えていき」とあり、動画では「"い"を次々と変えていき」と読んでいますが、これは「"きょ"を次々と変えていき」と読むのが正解ですw
『きょ』ですね。すみませんでした🙇♂️
伴と言えば忍びの家系?
先祖代々鷹番頭だったそうです🦅
放射能汚染・被曝の問題に対する町の対応に憤慨して広野町で町議会議員をやっている者です。日本史全般は若い頃オタクのように勉強しましたが、地元の會津については「八重の桜」ほども承知していませんでした。こちらで勉強させて頂いています。価値の高い活動ですね。ありがとうございます。
ご視聴ありがとうございます😊自分も恥ずかしながら地元の歴史はほとんど勉強していませんでした💦学校や親から教えられた程度でまだまだ勉強不足です。この歳になって改めて興味が湧き調べているところです。またよろしくお願いします。
義士
初めて伴さんを知りました 井上丘隅とかは知ってましたが凄く勉強になりました ありがとうございました♪
ご視聴ありがとうございます。有名ではない人でも凄い人生を歩んだ方はたくさんいるんですね。
理不尽な当時の政府と悪賢かった久保村文四郎に悩まされながらも、戦死した同胞(会津藩士)たちを懇ろに[墓標を立てられる等]弔われた等という人間味が溢れる伴百悦氏の生き様は侍の鑑と呼ぶに相応しいと、私も思いました。(武士道を著され重んじられた新渡戸稲造翁も、草葉の陰で伴氏を褒め讃えられるに相違ないでしょう)
戦死した仲間をどうしても放っておけなかったんですね。身分を落としてまで自分の手で埋葬したと聞いて胸が熱くなりました。
立派な男ですね自分も以前合唱させてもらいましたコロナ渦の今、このような凛とした政治家はいないのですかね残念です
メディアでは決して語られることのない事実を発信して頂きありがとうございます。本当の歴史的事実は地元にしっかりと存在しているのですね。いつかは会津に赴き明治維新の本当の正体を見極めたいものです。
暗殺と言う殺人を起こしたのは事実ですからね、それでもその理由を鑑みると納得する気持ちもありますが、良い悪いは別として史実を伝えたいと思い今回動画にしました。
@@aizuchannel 現代日本人の平和ボケの価値観で当時の人間の理解は到底出来ないでしょうし、やるべきではありません。ましてや彼らは侍なのですから。
@@aizuchannel 真実を伝えたいというなら、長岡 郡山 南会津、各地で行った会津藩士による残虐行為もまた真実ですよ。それと、久保村文四郎の言った事は至極もっともで、朝敵にされた長州藩士の死体は骨捨て場に捨てられていましたから。骨捨て場なんて罪人塚以下なわけですから、罪人塚から寺院埋葬なんて、これほど寛大な処置は無いでしょう。
素晴らしい動画をありがとうございます。善龍寺にお参りに行ったことはありましたが束松事件の現場や百悦最後の地・慶雲庵はまだ行ったことはなかったので拝見できて嬉しかったです。
ご視聴ありがとうございます。僕も今回初めて新潟の最後の地まで行きました。本当にあった事なんだと現地を見て感じる事ができました。
身分を落として埋葬を行う…。当時としては考えられないことです。誰かがやらなければならない…。自分がやらず誰がやる…という気持ちだったのでしょう。これこそ誠の武士です🙇
当時は考えられない行動ですね。どれほどの思いで埋葬を行ったのかと心が痛みますね。会津の漢を感じます。
久保村ぁ・・・・!! 人面獣心とは、貴様のことだ!!!!
早乙女貢さんの会津士魂でしりました。会津藩士の多くは、本当に故郷を想い、仲間を想い戦い亡くなられていったんですよ。
『會津士魂』で高田藩との戦いで、會津軍の将校が何名か斬り斃したが深手を負い、雑兵に斬られて玉砕した。雑兵は首級を挙げて、刀と双眼鏡を分捕った。高田の寺に謹慎させられた會津藩士が刀と双眼鏡を持った男に「貴殿が持って居られる刀は、我の亡き父の刀だが、どういう事なのですか」高田藩士「父が會津軍の将校の首級を挙げたので、軽輩の身分から藩士に出世したのです。 今日は亡き父の命日で、分捕った刀と双眼鏡を持参して會津軍の将校に成仏して貰う為に、御経を賜りに参りました」高田藩士が双眼鏡を會津藩士に形見分けした。文章は違うだろうが、こんな趣旨だったな。
短編映画、視聴させて頂きました。今回も良い動画でした。ありがとうございます。
今回もご視聴ありがとうございました(^ ^)
多くの偉人が語られる事なく埋もれてしまうのは惜しいことです。貴重な映像記録を残して頂きありがとうございました。次回の動画も楽しみ待ってます。
まだまだ知られていない偉人はたくさんいるようですね。もっと掘り下げて調べてみようと思います😊
会津には仕事で一年か二年居たな、行ったのは武家屋敷と鶴ヶ城かな、もう少し歴史探訪して観たい、伴さをん
恨むならば坂本恨め。
お疲れ様でした。果たして彼が暗殺者なのか。少し疑問に思います。一時間後私も磐越道を新潟市内に向かって走っていましたよ。間もなく登録者数が1万人ですね。すごい。
時代が変われば天誅、暗殺、敵討ち、伴さんの人生も時代に翻弄されたんですね。まもなく1万人、みなさまのおかげです🙇♂️
明治政府がこのような非人道的扱いをしていたなんて、ショックですね。同じ日本人なのに。許せません‼️久保村…(。・`з・)ノ戦は勝てば官軍、負ければ賊軍って、戊辰戦争からの言葉ですか?侍魂がない。日本人なのに…。会津、長岡藩士の立ち居振舞いこそ日本人ですね。
初めまして。伴百悦の名でこちらを知りました。実は久保村文四郎と先祖につながる可能性があり、久保村氏についても知りたかったのですがネット上ではなかなかみつかりません。こちらに記述のある久保村氏の情報はどこでお調べになりましたか?差し支えなければご教示願えれば幸いです。
はじめまして、ご視聴ありがとうございます😊久保村文四郎さんの事は伴百悦を調べると必ず出てくるのでそこで知りました。なので完全に会津側からの見解なので久保村さんの本当の人となりは分からないまま今回の様な動画になりました。会津側から見ただけでは悪役のようになってますが、僕も本当の久保村さんを知りたくて調べたのですが資料が出てきませんでした。お役に立てずすみません💦
@@aizuchannel ありがとうございます。ネットではかなり検索しましたが、久保村氏の石高15石とか、福井藩の藩士である証拠の文書類が見つかりませんでしたので問い合わせました。もしわかりましたらご教示願えればありがたいです。よろしくお願いします。
良い作品を見させて貰いました。会津の墓は、分骨したものでしたか!泣けて来る、毎度の事ですが、会津を思うと涙が止まらなく為る。偽官軍が、偽勅を発行し偽天皇を担ぎ幕府軍を朝敵と指弾した!早乙女貢氏は、天皇すり替えをご存じ無かったのだろうか??英国王室は、明治維新の全容を把握している。知らないのは、日本人だけ。だから、山口の田布施と鹿児島の苗代川(注)沿いに拡がる朝鮮部落をアーネスト・サトウが調査し、本国へ送って居る。小泉は、この鹿児島の朝鮮部落出身の鮫島姓です。三無事件にも関与した池口(鮫島)恵観は、小泉純也と親戚関係でしょう。サトウの『遠い崖』を読んだ頃、私は、何故、幕末に朝鮮部落が存在したのか?全く解りませんでした。秀吉の朝鮮出兵で連行された朝鮮人部落があり、薩摩焼も萩焼も朝鮮人陶工の手によるものと後に知りました。沈壽官。朝鮮人の恨みは1000年続く!日韓併合に因る内地化だけでは、無かったのです。パチンコ大手のマルハンの社名の由来は「マルは日の丸、ハンは恨」と社長が語る。家康は、自身の出自が群馬の金山(城)の出身で新田義貞の家臣で在った事から、豊臣政権崩壊後、直ちに対馬藩を間に立て、連行した朝鮮人1500名を帰国させ、李氏朝鮮とお互いの面子が立つ形で和議を結んでいる。此れが縁で朝鮮通信使が不定期で12回行われたと訊く。仁田義重の八男、義季(すえ)が徳川を初めて名乗ったと太田の世良田東照宮の伝聞。弁護士の鹿嶋昇氏が天皇すり替えを発表したのが、1990年の頃、ユースタス・マリンズの『民間が所有する中央銀行』も同時期に発売されてる。歴史の闇に光が当たり始めた年です。会津が京都御所の警備を解任され、あれよ、あれよの内に追放された間の経緯が今一つはっきりしない。山川貞次郎の執筆した会津藩の公式見解でも、不明のままでしょう?明治帝が睦仁では無く、朝鮮部落出身の大室寅之祐と承知して居たら、山川大蔵が、天皇の為に働いて見ないかと明治政府に誘われても、皇軍に参画する事は無かったと思う。伊藤博文も朝鮮人で伊藤家に親子で入籍している。明治維新は「大芝居」品川弥二郎。それにしても、御三家と云われた尾張、紀州が偽官軍と戦う事無く屈したのは、武士として情けない。註:「苗代川焼」は荒木陶窯の登録商標です薩摩焼は、苗代川焼・龍門司焼・竪野焼(磯お庭焼)の3つの流派に大別され、それぞれの地名を産地の名称として使用してきました。薩摩焼の始祖といわれる陶工達は、慶長三年(1598)、串木野(島平)・市来(神之川)・鹿児島市(前の浜)に着船しました。串木野(島平)に上陸した者達は、最初に串木野に築窯。慶長8年(1603)苗代川に移住し、製陶を始めました。その後苗代川で焼かれる焼き物はその地名を取って苗代川焼として親しまれていました。昭和31年9月30日に地名を苗代川より美山と改称、我々渡来陶工の子孫達は、故郷が日に日に其のたたずまいを変えて行く昨今、苗代川の地で作陶を始めた先人の事を忘れないようにと、焼き物にその名を残しました。土地の名称で無くなった苗代川という呼び名は商標の対象となり、県内外の商社によって商標登録の動きが始まりました。荒木幹二郎はこのままでは苗代川焼の窯元がその名称を使用出来なくなる旨を美山の陶器組合に説明し、商標の登録を提案しましたが、時代の流れか「美山に改名したので、苗代川という名称は不用」との意見が大半を占め、聞き入れてもらえませんでした。
久保村は人にあらず。鬼である。故に伴は鬼退治をした英雄である。
壮絶な生涯でしたね。一本信念を持っての行動だと思います。
@@aizuchannel 様歴史は正義と正義の戦いの物語!立場により解釈が代わりますね。それが歴史を楽しむ醍醐味です。戊辰戦争や西南戦争は歴史としてまだ生々しいから多様な見解を浴びせ られますね。 それが動画の素晴らしさでもあります!色んなお話しを提供して戴くだけで有り難いですね。 応援しております✌️
中島欣也の著書に書いて有りましたが、村松藩の史料では、伴 百悦(バン ヒャクイツ)越後人、新潟県人は「イ」と「エ」、「い」と「え」の区別が付かないからです。越後人の子孫の今の米沢人も「イ」と「エ」、「い」と「え」の区別が付かない。うこぎの切りあい♬米沢藩上杉鷹山公が奨励したうこぎ🌿カルシウムや食物繊維などが入っている『うこぎの切りあい』を定食と共にお出ししております。ぜひ、ご堪能下さいませ(*^^*)
「賎民」という表現が不快です。
『賎民』という扱いは時代と共にかわり意味や立場も変わったきたようです。
Googleに載ってたのをそのまま読んだだけやね。
「賎民」という差別用語を平気だ何回もナレーション入れる精神がねえ。どこかの解説書(駄本)から引用しただけかもしれないがテロップ追加も付しており意図的な感は拭えない。[”曹同宗”は「曹洞宗」だと思慮しますが。
パトロール隊
知らないいい話をありがとう!
ご視聴ありがとうございました😊
こんな悲しい人生を送られた人がいたのですね😢
仲間を想うがためにしてしまった事、最後はどんな思いだったのかと考えると心が苦しくなります。
遺体や遺骨に何の意味も持ちません蝉の抜け殻の様な物です
でも会津藩士を賊軍と罵る心が憎い
歴史春秋社より刊行されている『伴百悦』を読みましたが、本当にすごい人物だと思いました。
素敵な動画をありがとうございました。私も伴先生の足跡を辿りたくなりました。
実は家の近くに伴百悦さんのお墓があって興味を持って調べ始めました。
それで新潟県まで行ってしまいました。
良く此処まで調べられるとは、悲しいけどこの人の人生素晴らしい。ありがとうございました‼️
実は善龍寺さんの伴百悦さんのお墓のすぐ近くに住んでるんですよ😊僕の父がお散歩してて凄い人のお墓ぎあるから調べてみろ❗️と教えてくれたので調べてみました。
@@aizuchannel ありがとうございます❗貴方の動画が分かりやすくて前から観ていました。今回久しぶりに又色々観ていました😃ちなみに私長岡生まれ今日は色々観てしまいました‼️登録させていただきます🍴🙏
クッキーさん僕の動画を見て頂きありがとうございます😊
まだまだ間違いも多いですが💦また見ていただけると嬉しいです。これからもよろしくお願いします🙇♂️
安らかに、伴殿!
ご視聴ありがとうございます。
いつの日にか、福島梁川の干し柿を伴先生に、お供えしたいと思います!感動の涙有り難う御座います。
伴さんもお喜びになると思います😂
その心に感謝いたします🙇♂️
全く知りませんでした。😮
教えくれてありがとうございます🙇♀️
良くも悪くも人に歴史ありですね。人を取り巻く時代とともに…😢
あまり知られていない方ですからね。
他にも有名ではないけど義を通した素晴らしい方がたくさんいます‼️
伴百悦!
真の侍とはこう云う人を言うのですね。
安らかに。
義に誠実に悪を許せず事を起こして自刃。波乱万丈の生涯だったんですね!
@@aizuchannel 今の政治家に欲しい人ですね!
会津藩の激動の戦いの裏に、このような方がいらしたのですね。
大変興味深く拝見しました。
それにしても、会津には誠の侍が沢山いますね。
益々会津が好きになりました。
会津の人は頑固だと今でも言われています。先人たちの頑固さ、誠義を貫く心が脈々と受け継がれているんですね!
泣ける
伴百悦さんの生涯は本当に考えさせられますね。
伴百悦のことは会津の歴史を知り始めてしばらくたってから知りました。壮絶な人生だったのですね。
そしてまさか私の出身地の新津て亡くなっていたとは❗😢
どんな気持ちで潜んでいたのでしょうね😢
わざわざ訪ねてくださり、見せてくださってありがとうございました。
僕も伴百悦さんの事は大人になってから知りました。
新津のご出身なんですね!伴百悦さん最後の地は今でも大切に保存されていました。
戊辰戦争にこんな秘話があったのですね。立派な武士としての生き様、感動しました。
容保公が最後まで大切に所持されていた、孝明天皇から頂いた御宸翰で明治の世になってからですが、朝敵の汚名をそそぐ事が出来ました。歴史っていつも勝者の都合の良い様に作られていくのですね。なぜ伴様はお仲間のいる斗南に向かわれなかったのでしょうね。
伴さんの事はあまり表に出ない話ですね。僕も今回深く調べて、新潟のお墓まで行って大変感動いたしました。会津のお墓のすぐそばに住んでいるので伴さんについてもっと知りたくなりました。斗南へ行かなかったのは戦死者の埋葬があったからなのかと勝手に思います。
@@aizuchannel 様 返信ありがとう。戦死した方々の埋葬を済ませたなら なぜ斗南じゃなく新潟へ行かれたのかなと思いました。斗南の想像を超えた苦しい環境、生活を聴いておられたのでしょうか・・? 幕府そして天皇に尽くした会津藩、ラストサムライに胸を打たれます。
会津藩士伴百悦、身分を落としながら戦死した藩士たちを埋葬し、新政府の理不尽な態度に我慢しながらも久保村文四郎の態度だけには我慢が出来なかった。只、会津が京都守護職に着く事を説得したのは福井藩主松平春嶽。容保が断っても家訓を持ち出して説得した❗この事がなければ歴史は少し変わっていたかも知れない❗会津は優秀な人材を失いすぎました。只。久保村文四郎は暗殺されて当然の人物❗
加藤さんへ
・あなたのコメントの通りで、伴氏は人情に厚く実直な逸材の一人だったかと思うと残念でなりません。
秀樹さん。ありがとうございます❗戊辰戦争は会津が朝敵の汚名をすべて受けた戦争でした。会津の藩士と女性達は只自分達のふるさとを守るべく戦ったのです。薩摩、長州の方々が会津で取った行動は許されるものではありません❗その後太平洋戦争で白虎隊の最後を国威宣揚に利用した事も許せない❗
伴百悦という方の生涯を初めて知りました。あらためて会津の歴史は深いなと感じました。どうしても侍として久保村を許せなかったのでしょうね…
情け容赦ない蔑みと感じたんでしょうね。
どうもありがとうございます。はじめてお聞きする話です。私は福井・若狭の生まれですが、聡明な春嶽公の下に久保村のような人もいたことに驚いています。
ご視聴ありがとうございました。
保科正之が私心で米澤の上杉家を取り潰しから救ったのが間違いなのです。
領地を15万石に減らされた米澤の上杉家は幕末まで残っていました。
米澤の上杉家は旧領である越後を狙っていました。
會津(奥州)と荘内(羽州)を救う奥羽列藩同盟を米澤は仙臺と共に結成して、主導しました。
戊辰北越戰爭に米澤は主力を送りました。
米澤の北越戰線の總督・千坂高雅が北越戰線の奥羽列藩同盟總督に成りました。
米澤の上杉家と新発田の溝口家は仲が悪かった。
米澤の上杉家の圧力に業を煮やした新発田の溝口家は、
奥羽列藩同盟を裏切りました。
溝口家は領内の海岸に西軍を手引きして上陸させました。
西軍が新潟港を占拠しました。
長岡城を奪還した河井繼之助は西軍の反撃に遭い銃創を負いました。
そして西軍が長岡城を奪いました。
新発田の溝口家が奥羽列藩同盟を裏切り西軍が新潟港を占拠しているので、
河井繼之助は荘内領で再起する事が叶わずに、
會津領に入るしかなかったのです。
會津領で河井繼之助は死亡しました。
5次元の存在に尋ねたところ、
慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、
會津・荘内・長岡は戰爭で西軍に負けていなかったそうです。
河井繼之助と共和党に密約が存在したそうです。
翌年の雪解けの季節の頃に高田をアメリカが海軍と海兵隊で攻撃して、
高田を占拠して西軍と會津・荘内・長岡を調停していた筈だそうです。
河井繼之助が死亡しても、共和党との密約は機能して、
會津・長岡より北はアメリカの属国と成ります。
アメリカ海軍と海兵隊は高田に八年程占拠していた筈だそうです。
會津・荘内・長岡にアメリカ軍基地は建設されなかった筈だそうです。
慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、
日本と會津・荘内・長岡はアメリカとの太平洋戰爭を経験せずに済んでいたのです。
廣島と長崎に原子爆弾は投下されずに済んだのです。
上記は昔、インターネットで俺が公開した文章ですが、
保科正之が私心で米澤の上杉家を取り潰しから救ったので、
保科正之は大公儀を裏切って居たのです。
保科正之の家訓(カキン)は矛盾を生じるものです。
其の事に気付かなかった春嶽公は聡明では無い。
動画アップお疲れ様です。
歴史の教科書には載ってない会津藩士を紹介して頂いてありがとうございます。
会津藩士は決して朝敵では無かったと思いますが、歴史と云うのは勝者の都合の良いように創られるものなんだとつくずく思いました。
会津の人達は150年経っても決して忘れないんですね。
次の動画も楽しみにしています。
ご視聴ありがとうございます。伴さんの話は僕も深くは知らなかったので今回深掘りできて自分でも良かったです。
越前松平の会津松平との「京都守護職」の一件からの因縁が、久保村と伴にまで及ぶとは。
春嶽さまはなぜ久保村を叱りつけないのか?
甚だ疑問ですね。
岩村精一郎や世良修蔵よろしく。
木っ端役人めのどこが偉いのか?
俺には分かろうとも思わない。
伴さん。あんた正しいよ。
流石は誇り高い会津藩士だ。
久保村は忘れても。
俺は伴百悦を忘れない!
ご視聴ありがとうございます😊
地元の人と話しても驚くほど伴百悦さんを知らない人が多いです💦
ウチの近所にお墓があるのでたまに参ってますが、もっと地元の人にも知ってほしいですね。
立派なお侍さんです。
私がお参りしたのは、あのお墓の手前にあった分骨のお墓だったのですね。
善龍寺には他にもたくさんの武士のお墓がありました。
末裔のいないお墓は朽ち果てており、なんとも言いようのない胸が詰まる思いでした。
安らかにお眠りください。
善龍寺には西郷頼母、保科家などたくさんの会津藩の方のお墓がありますね、家が近くなのでお散歩がてらたまに行きます。
古いお墓、無縁になってしまったお墓は確かに朽ちてますね。散歩の際は皆に手を合わせたと思います。
訂正します
合唱→合掌
大変失礼しました
貴重なお話をありがとうございます!
ますます会津藩の藩士が好きになりました!
伴のような孤高の藩士の生き様が、世の中にもっと伝わってほしいと思います。
本当に素晴らしい方ですよね😌感動しました!
昭和になり、子孫の方や有志によって手厚く弔っていただいたようで安心しました。
歴史上の話ではあまり表に出ない方でも深く調べてみるとすごい方もたくさんいますね!これからもそんな人たちにスポットを当てていけたらと思ってます。これからもよろしくお願いいたします。
伴百悦は人情に篤い人物かもしれないが、そんな単純な話でもないことが、背景にある。
会津藩の贋金づくりは群を抜くが、明治三年の一年間における若松県下の贋金関係処罰者は、梟首五人・斬罪四十五人・流罪四十九人・不明(獄死か)一人計百人で、内訳は武士五人・農民五十二人・商人三十八人・他五人(宗教者か)に達した。その総額は十七万七千八百五十八両(引換金札額五万三千三百五十七両)と全国ダントツのトップなのである。
勿論、贋金の取締りに関係し、政府も黙っていない。 明治元年秋、 若松県民政局監察方であった久保村文四郎(旧福井藩士)を中心に、 旧会津藩士の贋金の取締りを強化する。そして、 明治元年秋、 若松県民政局監察方であった久保村文四郎(旧福井藩士)が、 旧会津藩士の伴百悦 ・高津平蔵らによって旧藩領内の野沢組束松峠の登り口で殺害された束松事件が起きている。この伴百悦と高津平蔵は町野主水とともに、戦後會津戦死者二千三十三体の遺体を阿弥陀寺と長命寺に埋葬の遺体を阿弥陀寺と長命寺に埋葬埋葬したと会津観光史学では美談として取り上げられる人物です。この殺害事件も地元では罪もない会津人を贋金の罪で投獄した悪い役人を懲らしめた英雄なのだが、、、。伴百悦は暫く、旧会津領飛地であった新津に逃れていたが、新津郊外大安寺村の村松兵に包囲され自害。
そもそも、いくら京都守護職を務め、鳥羽伏見で敗れ、カネはなかったとはいえ、鶴ヶ城で盛んに贋金をつくった会津藩が悪いのではないか?
義の人
正に義の人ですね!
会津のお墓が近くなのでたまに訪れてます😊
伴さんは家族はいらっしゃったのでしょうか?もしいたら奥さんや子供さんは大丈夫だったのでしょうか?
ご視聴ありがとうございました😊
ご子孫の方々がいらっしゃるのでご家族はいたと思います。
逃亡の果てに遠く離れた地で亡くなられたことはとても悲しかったろうと思います。
侍として最期まで侍として…
侍の心をしっかりと持ち身をもって示したんだと思います。
会津藩士の知られざる哀しい生きざまを知りました!
ご視聴ありがとうございます。頑固に生き、仲間を思い、悪を許せずそんな人生だったんですね。
俺等も会津藩士の子孫 斗南に追いやられ苦労の末会津に戻り帰農した藩士の子孫今はフィリピン在住ですが 会津に対する思いはガキの頃から聞かされて育った 余計思いは会津忘れ難しです
会津藩士の魂は脈々と受け継がれているんですね。
ご視聴ありがとうございました😊
清水次郎長親分を思い起こします。官軍賊軍の区別なく遺体を葬る作業を担ったのは有名な話です。かつて日本人同士が争っていたなんてことは現代では考えもつきませんね。平和ボケしないよう歴史を学びましょう!!
150年前に本当にあった事とは想像もつきませんが間違いなくあったんですね!
もっと勉強します。
清水の次郎長は、其の作業を、当時は天皇の侍従長に治まって居た【山岡鉄舟】に、見付かり、後には、其の勧めに従い『不二の裾野の大開墾事業』に、従事した為に、歴史に名を刻む事が出来た、侠客当時はしては、希有な人物と成れたのですよ‼️
10:47分頃「居を次々と変えていき」とあり、動画では「"い"を次々と変えていき」と読んでいますが、これは「"きょ"を次々と変えていき」と読むのが正解ですw
『きょ』ですね。
すみませんでした🙇♂️
伴と言えば忍びの家系?
先祖代々鷹番頭だったそうです🦅
放射能汚染・被曝の問題に対する町の対応に憤慨して広野町で町議会議員をやっている者です。
日本史全般は若い頃オタクのように勉強しましたが、地元の會津については「八重の桜」ほども承知していませんでした。こちらで勉強させて頂いています。価値の高い活動ですね。ありがとうございます。
ご視聴ありがとうございます😊
自分も恥ずかしながら地元の歴史はほとんど勉強していませんでした💦
学校や親から教えられた程度でまだまだ勉強不足です。この歳になって改めて興味が湧き調べているところです。またよろしくお願いします。
義士
ご視聴ありがとうございました😊
初めて伴さんを知りました 井上丘隅とかは知ってましたが凄く勉強になりました ありがとうございました♪
ご視聴ありがとうございます。有名ではない人でも凄い人生を歩んだ方はたくさんいるんですね。
理不尽な当時の政府と悪賢かった久保村文四郎に悩まされながらも、戦死した同胞(会津藩士)たちを懇ろに[墓標を立てられる等]弔われた等という人間味が溢れる伴百悦氏の生き様は侍の鑑と呼ぶに相応しいと、私も思いました。(武士道を著され重んじられた新渡戸稲造翁も、草葉の陰で伴氏を褒め讃えられるに相違ないでしょう)
戦死した仲間をどうしても放っておけなかったんですね。身分を落としてまで自分の手で埋葬したと聞いて胸が熱くなりました。
立派な男ですね
自分も以前合唱させてもらいました
コロナ渦の今、このような凛とした政治家はいないのですかね
残念です
ご視聴ありがとうございました😊
メディアでは決して語られることのない事実を発信して頂きありがとうございます。本当の歴史的事実は地元にしっかりと存在しているのですね。いつかは会津に赴き明治維新の本当の正体を見極めたいものです。
暗殺と言う殺人を起こしたのは事実ですからね、それでもその理由を鑑みると納得する気持ちもありますが、良い悪いは別として史実を伝えたいと思い今回動画にしました。
@@aizuchannel 現代日本人の平和ボケの価値観で当時の人間の理解は到底出来ないでしょうし、やるべきではありません。ましてや彼らは侍なのですから。
@@aizuchannel 真実を伝えたいというなら、長岡 郡山 南会津、各地で行った会津藩士による残虐行為もまた真実ですよ。
それと、久保村文四郎の言った事は至極もっともで、朝敵にされた長州藩士の死体は骨捨て場に捨てられていましたから。
骨捨て場なんて罪人塚以下なわけですから、罪人塚から寺院埋葬なんて、これほど寛大な処置は無いでしょう。
素晴らしい動画をありがとうございます。善龍寺にお参りに行ったことはありましたが束松事件の現場や百悦最後の地・慶雲庵はまだ行ったことはなかったので拝見できて嬉しかったです。
ご視聴ありがとうございます。僕も今回初めて新潟の最後の地まで行きました。本当にあった事なんだと現地を見て感じる事ができました。
身分を落として埋葬を行う…。当時としては考えられないことです。誰かがやらなければならない…。自分がやらず誰がやる…という気持ちだったのでしょう。
これこそ誠の武士です🙇
当時は考えられない行動ですね。
どれほどの思いで埋葬を行ったのかと心が痛みますね。
会津の漢を感じます。
久保村ぁ・・・・!! 人面獣心とは、貴様のことだ!!!!
早乙女貢さんの会津士魂でしりました。会津藩士の多くは、本当に故郷を想い、仲間を想い戦い亡くなられていったんですよ。
ご視聴ありがとうございました。
『會津士魂』で高田藩との戦いで、會津軍の将校が何名か斬り斃したが深手を負い、
雑兵に斬られて玉砕した。
雑兵は首級を挙げて、刀と双眼鏡を分捕った。
高田の寺に謹慎させられた會津藩士が刀と双眼鏡を持った男に「貴殿が持って居られる刀は、我の亡き父の刀だが、どういう事なのですか」
高田藩士「父が會津軍の将校の首級を挙げたので、軽輩の身分から藩士に出世したのです。 今日は亡き父の命日で、分捕った刀と双眼鏡を持参して會津軍の将校に成仏して貰う為に、御経を賜りに参りました」
高田藩士が双眼鏡を會津藩士に形見分けした。
文章は違うだろうが、こんな趣旨だったな。
短編映画、視聴させて頂きました。今回も良い動画でした。ありがとうございます。
今回もご視聴ありがとうございました(^ ^)
多くの偉人が語られる事なく埋もれてしまうのは惜しいことです。
貴重な映像記録を残して頂きありがとうございました。
次回の動画も楽しみ待ってます。
まだまだ知られていない偉人はたくさんいるようですね。
もっと掘り下げて調べてみようと思います😊
会津には仕事で一年か二年居たな、行ったのは武家屋敷と鶴ヶ城かな、もう少し歴史探訪して観たい、伴さをん
恨むならば坂本恨め。
お疲れ様でした。果たして彼が暗殺者なのか。少し疑問に思います。
一時間後私も磐越道を新潟市内に向かって走っていましたよ。間もなく登録者数が1万人ですね。すごい。
時代が変われば天誅、暗殺、敵討ち、伴さんの人生も時代に翻弄されたんですね。
まもなく1万人、みなさまのおかげです🙇♂️
明治政府がこのような非人道的扱いをしていたなんて、ショックですね。同じ日本人なのに。許せません‼️
久保村…(。・`з・)ノ
戦は勝てば官軍、負ければ賊軍って、戊辰戦争からの言葉ですか?
侍魂がない。日本人なのに…。会津、長岡藩士の立ち居振舞いこそ日本人ですね。
ご視聴ありがとうございました😊
初めまして。伴百悦の名でこちらを知りました。実は久保村文四郎と先祖につながる可能性があり、久保村氏についても知りたかったのですがネット上ではなかなかみつかりません。
こちらに記述のある久保村氏の情報はどこでお調べになりましたか?差し支えなければご教示願えれば幸いです。
はじめまして、ご視聴ありがとうございます😊
久保村文四郎さんの事は伴百悦を調べると必ず出てくるのでそこで知りました。なので完全に会津側からの見解なので久保村さんの本当の人となりは分からないまま今回の様な動画になりました。会津側から見ただけでは悪役のようになってますが、僕も本当の久保村さんを知りたくて調べたのですが資料が出てきませんでした。
お役に立てずすみません💦
@@aizuchannel ありがとうございます。ネットではかなり検索しましたが、
久保村氏の石高15石とか、福井藩の藩士である証拠の文書類が見つかりませんでしたので問い合わせました。
もしわかりましたらご教示願えればありがたいです。よろしくお願いします。
良い作品を見させて貰いました。
会津の墓は、分骨したものでしたか!
泣けて来る、毎度の事ですが、会津を思うと涙が止まらなく為る。
偽官軍が、偽勅を発行し偽天皇を担ぎ幕府軍を朝敵と指弾した!
早乙女貢氏は、天皇すり替えをご存じ無かったのだろうか??
英国王室は、明治維新の全容を把握している。知らないのは、日本人だけ。
だから、山口の田布施と鹿児島の苗代川(注)沿いに拡がる朝鮮部落をアーネスト・サトウが調査し、本国へ送って居る。
小泉は、この鹿児島の朝鮮部落出身の鮫島姓です。三無事件にも関与した池口(鮫島)恵観は、小泉純也と親戚関係でしょう。
サトウの『遠い崖』を読んだ頃、私は、何故、幕末に朝鮮部落が存在したのか?全く解りませんでした。
秀吉の朝鮮出兵で連行された朝鮮人部落があり、薩摩焼も萩焼も朝鮮人陶工の手によるものと後に知りました。沈壽官。朝鮮人の恨みは1000年続く!
日韓併合に因る内地化だけでは、無かったのです。
パチンコ大手のマルハンの社名の由来は「マルは日の丸、ハンは恨」と社長が語る。
家康は、自身の出自が群馬の金山(城)の出身で新田義貞の家臣で在った事から、豊臣政権崩壊後、直ちに対馬藩を間に立て、連行した朝鮮人1500名を帰国させ、李氏朝鮮とお互いの面子が立つ形で和議を結んでいる。
此れが縁で朝鮮通信使が不定期で12回行われたと訊く。
仁田義重の八男、義季(すえ)が徳川を初めて名乗ったと太田の世良田東照宮の伝聞。
弁護士の鹿嶋昇氏が天皇すり替えを発表したのが、1990年の頃、ユースタス・マリンズの『民間が所有する中央銀行』も同時期に発売されてる。歴史の闇に光が当たり始めた年です。
会津が京都御所の警備を解任され、あれよ、あれよの内に追放された間の経緯が今一つはっきりしない。
山川貞次郎の執筆した会津藩の公式見解でも、不明のままでしょう?
明治帝が睦仁では無く、朝鮮部落出身の大室寅之祐と承知して居たら、山川大蔵が、天皇の為に働いて見ないかと明治政府に誘われても、皇軍に参画する事は無かったと思う。
伊藤博文も朝鮮人で伊藤家に親子で入籍している。
明治維新は「大芝居」品川弥二郎。
それにしても、御三家と云われた尾張、紀州が偽官軍と戦う事無く屈したのは、武士として情けない。
註:「苗代川焼」は荒木陶窯の登録商標です
薩摩焼は、苗代川焼・龍門司焼・竪野焼(磯お庭焼)の3つの流派に大別され、それぞれの地名を産地の名称として使用してきました。薩摩焼の始祖といわれる陶工達は、慶長三年(1598)、串木野(島平)・市来(神之川)・鹿児島市(前の浜)に着船しました。串木野(島平)に上陸した者達は、最初に串木野に築窯。慶長8年(1603)苗代川に移住し、製陶を始めました。その後苗代川で焼かれる焼き物はその地名を取って苗代川焼として親しまれていました。
昭和31年9月30日に地名を苗代川より美山と改称、我々渡来陶工の子孫達は、故郷が日に日に其のたたずまいを変えて行く昨今、苗代川の地で作陶を始めた先人の事を忘れないようにと、焼き物にその名を残しました。
土地の名称で無くなった苗代川という呼び名は商標の対象となり、県内外の商社によって商標登録の動きが始まりました。荒木幹二郎はこのままでは苗代川焼の窯元がその名称を使用出来なくなる旨を美山の陶器組合に説明し、商標の登録を提案しましたが、時代の流れか「美山に改名したので、苗代川という名称は不用」との意見が大半を占め、聞き入れてもらえませんでした。
久保村は人にあらず。鬼である。故に伴は鬼退治をした英雄である。
壮絶な生涯でしたね。
一本信念を持っての行動だと思います。
@@aizuchannel 様
歴史は正義と正義の戦いの物語!
立場により解釈が代わりますね。
それが歴史を楽しむ醍醐味です。
戊辰戦争や西南戦争は歴史としてまだ生々しいから多様な見解を浴びせ られますね。 それが動画の素晴らしさでもあります!
色んなお話しを提供して戴くだけで有り難いですね。 応援しております✌️
中島欣也の著書に書いて有りましたが、
村松藩の史料では、伴 百悦(バン ヒャクイツ)
越後人、新潟県人は「イ」と「エ」、「い」と「え」の区別が付かないからです。
越後人の子孫の今の米沢人も「イ」と「エ」、「い」と「え」の区別が付かない。
うこぎの切りあい♬
米沢藩上杉鷹山公が奨励したうこぎ🌿
カルシウムや食物繊維などが入っている『うこぎの切りあい』を定食と共にお出ししております。
ぜひ、ご堪能下さいませ(*^^*)
「賎民」という表現が不快です。
『賎民』という扱いは時代と共にかわり意味や立場も変わったきたようです。
Googleに載ってたのをそのまま読んだだけやね。
「賎民」という差別用語を平気だ何回もナレーション入れる精神がねえ。どこかの解説書(駄本)から引用しただけかもしれないがテロップ追加も付しており意図的な感は拭えない。[
”曹同宗”は「曹洞宗」だと思慮しますが。
パトロール隊